サー・マットバスビー

サー・マット・バスビー

スコットランドのラナクシャー出身のマット・バスビーは、マンチェスター・シティーとリヴァプールでプレーしたあと、1945年10月にユナイテッドの監督に就任した。

最初にチームに呼び寄せたのはジミー・マーフィーで、アシスタントコーチの彼とともに、バスビーはユナイテッドの戦後の黄金時代を築くことになる。1948年にFAカップで優勝し、リーグ戦では47、48、49、51年に2位になったあと、52年についに優勝を果たした。

その頃になると、ビル・フォルケス、マーク・ジョーンズ、デイヴィッド・ペッグ、リアム・ウェラン、エディー・コールマン、ダンカン・エドワーズといった、のちにバスビー・ベイブスと呼ばれる若手が次々と育ち、1956年と57年にはリーグを2連覇した。

バスビーは国外にも目を向け、1956-57シーズンにはイングランドのクラブとして初めてチャンピオンズカップに参戦し、準決勝まで進んだ。翌シーズンも欧州の舞台で勝ち上がっていったが、レッドスター・ベオグラードと対戦した1958年2月5日の準々決勝の翌日に悲劇に見舞われてしまう。ベオグラードからチャーター機でマンチェスターへ戻る途中、給油のため立ち寄ったミュンヘン空港で飛行機が事故を起こし、乗員・乗客23名が命を落とすのだが、その中にはユナイテッドの選手8名、クラブ関係者3名が含まれていたのだった。

バスビーも事故で大けがをしたものの、その年の8月に復帰。ユナイテッドは生き残ったバスビー・ベイブスに新たな選手を補強して生まれ変わり、1963年にはFAカップで見事に優勝を遂げた。1965年と67年にはリーグ優勝を果たして完全復活すると、1967-68シーズンのチャンピオンズカップでは歓喜の瞬間が訪れた。ウェンブリーで行われた決勝戦でベンフィカと対戦したユナイテッドは、延長戦の末に4-1で勝利し、欧州王者に輝いたのだった。それはミュンヘンの悲劇が起きてちょうど10年にあたる年であり、クラブとしてもバスビー個人としても、最高の形で犠牲者を追悼することができたと言えるだろう。

バスビーは1968-69シーズンに引退したものの、1970年12月28日にウィルフ・マクギネスに代わって復帰し、そのシーズンの終わりまで指揮を執った。1958年にCBE(大英勲章第3位)を受勲したバスビーは、チャンピオンズカップで優勝した1968年にナイトの称号を贈られた。1980年にはユナイテッドの会長、82年にはフットボールリーグの副会長に就任した。1993年にはオールド・トラッフォードの前を通るワーウィック・ロード・ノースがサー・マット・バスビー・ウェイに改名された。

バスビーは1994年1月20日に84歳で亡くなったが、それから5年後の1999年、ユナイテッドはチャンピオンズリーグで優勝し、再び欧州の頂点に立った。アレックス・ファーガソンが築き上げたチームがバルセローナの地でビッグイヤーを掲げた5月26日は、奇しくもバスビーの90回目の誕生日でもあった