フランク

元監督フランク・オファレル氏が逝去

火曜日 08 3月 2022 10:03

マンチェスター・ユナイテッド関係者一同は、元監督フランク・オファレル氏逝去の突然の悲報に、深く悲しんでいる。彼は94歳だった。

フランクがユナイテッドで指揮を執った1年半は波乱に満ちたものだったが、彼は才能に満ちた監督で、なにより誠実な人物だった。1972年のクリスマス直前に退任した、威厳があり、物腰の柔らかいアイルランド人監督のオールドトラッフォードでの人生は、鮮やかなまでに対照的な2つの秋のストーリーとともに語られた。

1971年6月、マット・バスビー卿の後任として就任したオファレルは、最初の秋には、5ポイント差で首位に立つ という、見応えあるチームを率いていた。しかし、2年目の秋は、故障者が続出したことも災いし、クリスタル・パレスに大敗すると、任期に終わりを告げることとなった。

フランク・オファレル氏の突然の悲報にユナイテッドは悲しみに暮れている

1927年、鉄道運転手の息子としてコークで生まれたフランクは、選手としてはウェストハム・ユナイテッドとプレストン・ノースエンドでウイングハーフとして活躍。1950年代にはアイルランド代表として9キャップを獲得している。

マルコム・アリソン、ジョン・ボンド、ケン・ブラウン、そして後にユナイテッドの監督となるデイブ・セクストンなどを擁した、名高いウェストハムの「アカデミー」の一員だった彼は、指導者のキャリアに強い思いを抱き、南部リーグのウェイマスを皮切りに、トーキー・ユナイテッド、レスター���シティーと、順に監督としての経験を積み上げていった。

オファレルは、フォクシーズを1969年のFAカップ決勝に導いたが、その試合ではマンチェスター・シティーに敗れた。しかし1971年には2部リーグ優勝を果たしている。

ユナイテッドは、彼のサッカーに関する専門知識、強靭なキャラクター、ひたむきな努力、誠実さを評価し、3シーズンにわたって成績が低迷していたオールドトラッフォードに栄光の日々を取り戻すという難業を任せた。

それは実際、問題だらけの大仕事だった。1968年の欧州カップ戦の優勝メンバーは高齢化し、長引く怪我に悩まされている者もいて、チームの大がかりな再建は急務であった。それでも、オファレルに率いられてユナイテッドは開幕から20試合でわずか2敗という素晴らしいスタートを切ると、1部リーグで首位に躍り出た。

個人的な問題を抱えていたジョージ・ベストも、フランクの指揮の下、ピッチでは成功を収め、2度のハットトリックや、ホームでのシェフィールド・ユナイテッド戦での忘れられないゴールを含む14得点を決めた。

しかしシーズン終盤は息切れし、最後は優勝したダービーに10ポイント差をつけられた。負傷者の続出も影響して、1972-73シーズンのパフォーマンスも鈍く、降格の危機に怯えた理事会は、クリスマス前にオファレルに代わってトミー・ドハーティを監督に任命した。しかしドハーティは降格を1シーズン遅らせただけだった。このことは、バスビー離脱後のユナイテッドが、いかに大きな再建を強いられていたかを物語っている。

当時レスターの監督だったフランク・オファレルと、サー・マット・バスビー。

オファレルには不運もあった。選手の補強に関しては、その後ユナイテッドで長く素晴らしいキャリアを築いたDFのマーティン・バカンの獲得もあったが、ゴールを量産したイアン・ストーリー・ムーアは、怪我により選手生命を絶たれた。

ユナイテッドを退任した後は、カーディフ・シティーとイラン代表の監督を務め、トーキーをさらに2度にわたって率いたのちに引退した。フランクは、オールド・トラッフォードで長期的なプロジェクトを実施するための十分な時間を与えられなかったことを嘆いていた。望みがかなっていたとして、その結果がどうなっていたかはもはや分からないが、クラブ史の中のこの厳しい時期に着任し、舵を切ってくれたことに、我々はその後も感謝し続けることだろう。

ユナイテッドの関係者一同は、フランクの家族や友人たちに深く哀悼の意を表します。