ジョー
カシディ
- 出場回数174
- 総ゴール100
1992-93シーズンにエリック・カントナがシーズン途中でユナイテッドに加入したように、ジョー・カシディも1892-93シーズンの途中でユナイテッドに入団した。
しかし、カントナがサー・アレックス・ファーガソン監督率いるチームに貢献して最終的にタイトルを獲得した一方で、カシディは正反対のキャリアを歩んでいる。 カシディは1892-93シーズンに残留を懸けてスモール・ヒースと戦っていたユナイテッドの前身であるニュートン・ヒースに加入する。加入から2ヶ月、早々の活躍で降格の危機を救うと、ニュートン・ヒースから再びお呼びがかかるまで 、2年間を故郷・スコットランドのセルティックで過ごした。 2度目のマンチェスターでの暮らしは、2ヶ月よりもずっと長いものになる。ニュートン・ヒースで過ごした1895年からの5年間とその後マンチェスター・シティーでの1年間で、カシディはパワフルで非常に得点能力の高いストライカーとして地位を確立した。 イングランドに戻ってきてからの最初の試合は注目すべきものになった。前半に3ゴール、後半に11ゴールを奪い、ウォルソール・タウン・スウィフツを14-0で下したのだ。カシディは4ゴールを奪ったが、残念なことに勝利は記録に残ら なかった。ウォルソールは『ピッチが異常に重い』として抗議し、再試合が行われることになったのだ。再試合でのウォルソールは、少しはプライドを見せて、ユナイテッドに“たった”9ゴールしか許さなかった。その中には、カシディがニュートン・ヒースで記録した99ゴールのうちの最初の2ゴールも含まれている。 カシディの大量得点は、1914年にサンディ・ターンバルが3ケタ得点を記録するまで、長い間ユナイテッドの最多ゴール数として輝いていた。そしてこの爆発的な得点力は、カシディの価値を増すものでもあった。街の反対側にあるマンチェスター・シティーからオファーが来た時に、資金源に困ったニュートン・ ヒースの望んだ通りの移籍金を手に入れることができた。結局、1900年の4月に250ポンド(約3万5000円)でマンチェスター・シティーに移籍してしまったが、シティーでは成功することができず、カシディの選手としての価値は落ちてしまった。1年後にミドルスブラに移籍した時、彼の移籍金は75ポンド(約1万700円)だった。 その後移籍したミドルスブラでは、135試合で34ゴールを奪った。しかし彼の最高のシーズンは、ニュートン・ヒースのヒーローとして過ごしたあの頃だ。
Forward
Scottish
1872年7月30日
1893年3月1日
1893年3月30日
v ストーク(H)リーグ
1900年3月31日
監督はチームが戦いの最前線に立っていることを喜んでいるが、さらにトロフィーを獲得するにはもっとやらないといけないと言う。