年代別クラブ史
年代別クラブ史
黄金の世代から暗黒期、復活を経たマンチェスター・ユナイテッドの壮大な歴史...
1878年から1909年
1878年、マンチェスター・ユナイテッド・フットボール・クラブが始めて結成された。しかし当時はニュートン・ヒースLYM(ランカシャー&ヨークシャー・レイルウェイ)という別の名前を名乗っていた。
当時は、その後国内、さらには世界をも席巻するクラブになるなどという思いは微塵もないまま、ニュートン・ヒースで働く鉄道職員たちは、社内の別のチームや他の鉄道会社のチームとの対戦に興じていた。
1888年にフットボール・リーグが設立された時にも、ニュートン・ヒースの面々は、ブラックバーン・ローバースやプレストン・ノースエンドらと肩を並べて創立メンバーに加わるなどありえないと考えていた。彼らが初めてリーグに加わったのは、1892年になってからのことだった。
運営資金に問題を抱えていた彼らは、20世紀が始まる頃には存続の危機にも面していた。その彼らを救ったのが、地元の醸造会社のオーナー、ジョン・ヘンリー・デイヴィスだった。さすがはレジェンドの勘とでも言おうか、デイヴィスはなんと、キャプテン、ハリー・スタッフォードが飼っていた犬の様子を見て、クラブが窮状にあることを察知したのだった。
デイヴィスは、クラブ運営に参画することを条件にニュートン・ヒースに投資することを決めた。これによりクラブの名称が変えられることになった。マンチェスター・セントラル、マンチェスター・セルティックといった案が消える中、1902年の4月から5月にかけて、マンチェスター・ユナイテッドが誕生した。
次にクラブに参画した強力な人物がアーネスト・マングネイルだった。彼は1903年9月にクラブの事務局長に就任したが、それよりもユナイテッドの初代監督として記憶されている。新たにGKハリー・モガーとFWチャーリー・セイガーを迎え入れ、1903-04シーズンから2年連続してセカンド・ディビジョンの3位で終えた。
続く1905-06シーズンは、マンチェスター・ユナイテッド黎明期の最盛期とも呼べるシーズンとなった。中盤を形成したディック・ダックワース、アレックス・ベル、そしてキャプテンのチャーリー・ロバーツ(写真)がチームの中枢だった。彼らはFAカップ準々決勝にまで勝ち進み、さらにはセカンド・ディビジョンでも2位でシーズンを終えた。これにより、12年間の2部リーグ参戦を経て、ユナイテッドはようやくトップリーグ入りを果たすことになった。それを祝うかのようにマングネイルはビリー・メレディスをライバルのマンチェスター・シティから引き抜いた。ウェルシュ・ウィザードの異名をとったメレディスはシティで勃発した収賄疑惑に関与しているとして、17人の選手たちとともにオークションにかけられていたのだ。マングネイルはすかさず彼を手に入れ、入札が始まる前に契約をとりつけた。
メレディスの入団はチームに絶大な影響を与えた。ユナイテッドが初めてリーグ優勝を果たした1907-08シーズンには、数え切れないほどサンディ・ターンブルのゴールをセットアップした。リーグ王者となったユナイテッドは、1908年、初めてチャリティシールドに臨み、サザンリーグのチャンピオン、QPRを4-0で下して優勝トロフィを手に入れた。この試合の功労者はハットトリックをあげたジミー・ターンブルだった。クラブのキャビネットに加わった3つ目のトロフィが1909年のFAカップだ。ユナイテッドは決勝戦でブリストルシティを1-0で破った。唯一の決勝ゴールを挙げたのは、サンディ・ターンブルだった。
1910年から1919年
1909-10シーズン、オールド・トラッフォードという言葉が初めてフットボール史に刻まれた。マンチェスター・ブリュワリー・カンパニーがジョン・ヘンリー・デイヴィスを通して購入した土地が、ユナイテッドにリースされた。
スタジアムの建設費用を賄ったのはデイヴィスだった。建築家アーチボルド・リーチの監督のもと1908年に着工し、1910年までにはそれまで本拠地だったバンク・ストリートから一切合切が移転された。オールド・トラッフォードでの初戦は1910年2月19<日に行われた。初めて迎え入れた対戦相手はリヴァプール。試合は4-3で惜敗したが、スタジアムは盛況を極め、8万の観衆がスタンドを埋めた。この試合の2日前、バンク・ストリートの旧スタジアムの古びた木製のスタンドは、強風で吹き飛ばされていた。それはユナイテッドにとって、新たな拠点に移る時期だったことを象徴していた。
成績もそれを証明した。オールド・トラッフォードで初めてフルシーズンを戦った1910-11シーズン、ユナイテッドは2度目のリーグ優勝を果たした。本拠地で行われたシーズン最終戦でサンダーランドを5-1で破って優勝を決めた。この試合で2点を挙げたハロルド・ハルスは、スウィンドン・タウンに8-4で快勝したチャリティシールドでも6点を挙げた。
大勝で幸先のいいスタートを切ったにもかかわらず、そのシーズンは勝利が続かず、ディフェンディング・チャンピオンは1911-12シーズンを13位という不甲斐ない成績で終えた。事務局長兼監督のアーネスト・マングネイルは批判にうんざりして辞任し、地元のライバルクラブであるマンチェスター・シティに鞍替えした。マングネイルの後任に任命されたのは、フットボール・リーグの会長を勤めていたJJベントリーだった。彼に率いられたユナイテッドは1912-13シーズン、4位まで挽回した。
1913-14シーズンは転換期となった。そして翌シーズンはマネージメントに改革が行われた。1914年12月、事務局長と監督の役割は、初めて分業化されることになった。これにより、ベントリーは事務局長に専念し、ジョン・ロブソンがチームの監督として迎えられた。しかしそれまでの10年間結果を出してきたチームは斜陽の時を迎えようとしていた。1909年のFAカップに優勝したメンバーはジョージ・ステーシー、ビリー・メレディス、サンディ・ターンブル、ジョージ・ウォールしかおらず、当然ながら苦戦して、辛くも1ポイント差で降格を免れた。
復興のためのプランを講じる間もなく、第一次大戦の勃発によりフットボールは人々の意識の裏側に追いやられることになった。リーグ戦は中断され、各クラブは地域ごとのコンペティションを行った。ユナイテッドは4年間、ランカシャー・プリンシパル・アンド・サブシダイアリー・トーナメントに参加したが、これが転じて悲惨な結果となった。選手2人が八百長で有罪となり、エノク・ウェストは生涯謹慎処分、サンディ・ターンブルはフットボーラーで形成された軍隊の一員となったが、1917年5月、フランスでの戦いで命を落とした。これによりユナイテッドはまた一人20世紀初期の偉大なヒーローを失った状態で1919-20シーズンのリーグ再開を迎えることになるのだった。
1920年から1929年
第一次世界大戦によって4年間中断されていたリーグ戦が再開し、マンチェスター・ユナイテッドも1919年8月30日にリーグ復活後の初戦を迎えた。ダービー・カウンティ戦に臨んだメンバーは大きく様変わりし、中断前最後の1914-15シーズンにプレーしていた選手は2人だけになっていた。
ビリー・メレディスは依然としてプレーしていたが、彼のオールド・トラッフォードでの輝かしいキャリアは終盤にさしかかっていた。ユナイテッドが12位で終えた1919-20シーズンの出場は19試合に留まった。
新たなに登場したヒーロー、ジョー・スペンスが14得点を挙げてチームのトップスコアラーとなった。彼は翌1920-21シーズンも同点でトップスコアラーとなったが、発展途上にあったユナイテッドは13位で終えた。
ジョン・ロブソン監督がチームを去ると、後任にはジョン・チャップマンが就任した。彼はかつてJJベントリーがしていたように、監督と事務局長を兼任した。一方、以前監督を務めたアーネスト・マングネイルはマンチェスター・シティの指揮官として地元紙を賑わせていた。彼らはメイン・ロードに建てた新スタジアムに移転したばかりだった。
マングネイルはすでにキャリアの晩年を迎えようとしていたメレディスをシティに迎え入れた。彼を失ったユナイテッドが初めてトップリーグから降格を喫したのは、決して偶然ではなかっただろう。1921-22シーズン、ユナイテッドは42試合でわずか8勝しかあげることができなかった。チャップマンに率いられたチームはその後、2部リーグで3度昇格に挑戦。その最後の年である1924-25シーズン、ピッチ上で絶大なリーダーシップを発揮したフランク・バーソン(写真)の尽力の甲斐もあって、ユナイテッドは8敗でレスターシティに次ぐ2位でシーズンを終え、トップリーグ復帰を決めた。
復帰初年度となった1925-26シーズンは9位と堅実な結果で終えた。チャップマンのチームはFAカップでも善戦したが、シェフィールドのブラモール・レーンでの準決勝戦でマンチェスター・シティに3-0で敗れた。しかしシティの幸運も尽き、決勝ではボルトンに敗れ、リーグ戦でも2部降格となった。
しかしユナイテッドサポーターもシティの不運を喜んでいる場合ではなかった。1926-27シーズンも2ヶ月を経過した頃、フットボール・アソシエーションはチャップマンを謹慎処分とした。しかしその理由は明かされなかった。後任の指揮官を探す間、ウィングハーフでプレーしていたクラレンス・ヒルディッチがプレーイングマネジャーを務めたが、”ラル”の愛称で親しまれたヒルディッチは自身をメンバーに選ぶことを躊躇したため、チームは弱体化した。
シーズン終盤になって、ハーバート・バムレットがマネジャーに着任した。彼はユナイテッドサポーターにはお馴染みの存在だった。かつて審判だったバムレットは、1909年のFAカップ準々決勝でユナイテッドがバーンリーと対戦した試合を担当していた。ひどい吹雪の中で行われたその試合は、ユナイテッドが1点ビハインドで追う展開だったが、悪天候のために途中で中止となった。バムレットはあまりの寒さに試合終了の笛を吹くことができず、チャーリー・ロバーツに代わってもらわねばならない有様だったが、再試合でバーンリーに勝利したユナイテッドは、その年のFAカップに優勝した。
しかし監督としてはバムレットはインパクトを与えることはできなかった。チームは徐々に後退し、1926-27シーズンを15位で終えると、翌1927-28シーズンは18位とさらに順位を下げた。1928-29シーズンには12位まで盛り返し、スペンスもゴールを量産したが、それでもユナイテッドの衰退に歯止めをかけることはできなかった。
1930年から1939年
1920年代に始まった衰退は1930年代に入っても続いた。1929-30シーズンを17位で終えると、ファンたちの心も不安で満たされていった。
翌シーズン、彼らの不安は現実のものとなった。リーグ戦で開幕から12連敗というクラブ史上最悪のスタート。その間には、ハダースフィールドに6-0、ニューカッスルに7-4と、オールド・トラッフォードで2戦続けての大敗もあった。結果的にその1930-31シーズンは42試合中27敗、115失点で2部リーグに降格。監督のハーバート・バムレットは辞任し、事務局長のウォルター・クリックマーがチームを率いることとなった。サポーターの忠誠心も試された。翌シーズンの開幕戦にスタジアムに足を運んだのはわずか3507人のみ。その後も事態は悪化し、12月になる頃には選手たちの給料も払えず、破産すら極めて現実的な状況となった。
そこへ現れた救世主がジェームズ・ギブソンだった。軍隊のユニフォームを製造する会社を経営していたギブソンは、3万ポンドを出資した。選手達の給料は支払われ、最悪の状況を脱すると、ギブソンは新たにスコット・ダンカンを監督として採用した。ダンカンにはチーム補強のための予算も与えられたが、その恩恵を十分に結果に反映させることはできず、1933-34シーズンにはあと一歩でクラブ史上初の3部リーグ降格というところまで落ち込んだ。命運がかかったシーズンの最終戦、トム・マンリーとジャック・ケイプのゴールで2-0で勝利すると、敗者側のミルウォールが3部に降格した。その同じ週、マンチェスター・シティはFAカップに優勝していた。メンバーにはマット・バスビーという名の選手がいた。
続く1934-35シーズンは5位で終え、翌シーズンは10年ぶりのトロフィを手にいれた。シーズン終盤の19試合で無敗をキープし、最終戦でバリーに3-2で勝利すると、レッズは2部リーグに優勝した。この終盤の好調ぶりは、トップリーグ復帰後も十分戦えるであろうことを予想させたが、実際にはクリスマスを迎えるまでにわずか4勝。シーズンを通しても10勝に留まり、ふたたび2部リーグに逆戻りした。その年シティーはリーグタイトルを獲得し、両者の明暗は見事なまでに分かれた。当時のユナイテッドにはウォルター・ウィンターボトムがいた。彼はのちにイングランド代表を16年間率いてナイトの称号を得ることになる。
次の1937-38シーズンはアストン・ヴィラに次いで2位でリーグを終えてトップリーグ復帰を決め、ユナイテッドの『ヨーヨー状態』は続いていた。しかしそのシーズン半ばの11月に監督のダンカンはイプスウィッチ・タウンに鞍替えした。ふたたびウォルター・クリッカーが暫定監督を務めることになったが、彼らがリレー式で率いたこのシーズンの最大の収穫は、ジョニー・キャリーを発掘したことだ。彼はのちに、フットボール史でもっとも偉大なサイドバックとして記憶されることになるのだが、トップリーグ昇格後のシーズン、32試合に出場したキャリーは、前へ攻め上がるプレースタイルで6ゴールをマーク。彼の奮闘の甲斐もあってユナイテッドは14位と踏ん張り、2部リーグUターンを免れた。一方シティはこの年、降格を喫した。しかし満足げにそれを眺めている余裕はなかった。戦争が始まり、フットボールリーグはその後7年間休止となった。
1940年から1949年
第二次世界大戦が勃発した1939年から1946年の間、フットボールは人々の意識の奥底に追いやられていた。しかしリーグ戦が休止となっていた間も、オールド・トラッフォードは依然として注目を集めていた。
1941年3月11日、ドイツ軍の空撃でスタジアムは砲弾を浴びた。それによりメインスタンドとロッカールーム、事務所が崩壊した。かなりの打撃ではあったが、わずか数年のうちには、この名スタジアムは楽観的な希望に満ちていた。
その希望を運んできた男の名はマット・バスビー。マンチェスター・ユナイテッドの歴史に絶大な影響を及ぼすことになる人物だ。現役時代にはマンチェスター・シティやリヴァプールでプレーしたバスビーは、戦時中はキング・リヴァプール部隊に従軍していた。そこでのリーダーシップは、ユナイテッドでもいかんなく発揮された。
バスビーは1945年、5年契約でレッズに雇用された。その後25年間もこのクラブを率いることになるとは、彼自身想像だにしていなかったことだろう。着任早々から若き指揮官は数人の選手のポジションを変更するなど、腕を振るった。さらには、ジミー・デラニー、スタン・ピアーソン、ジャッキー・ロウリー、チャーリー・ミッテン、ジョニー・モリスによる『フェイマス・ファイブ』と呼ばれたフォワード5人衆を形成した。
しかしながらバスビーが採用した中でもっとも重要なメンバーはおそらく、コーチングスタッフだ。マットは、戦争中に知り合ったジミー・マーフィーが自分の最高の片腕になると確信していた。2人の協力体制でユナイテッドは、世界のフットボール界にその名を轟かせる存在になるのだった。
<バスビーとマーフィーにとって、栄光への最初の一歩は国内リーグを圧倒できるチームを構築することだった。そして最初の試みから、彼らは手応えを得た。戦後にリーグ戦が再開されると、初年度の1946-47シーズンをリヴァプールに次ぐ2番手で終えた。これはユナイテッドにとって、36年来で最高位だった。そしてこのシーズン、リザーブチームが地域リーグで優勝していたことも、今後に期待を抱かせた。
地元の若手選手と、すでにキャリアを確立した選手たちとを融合させたバスビーのチームは、その翌年、スタンリー・マシューズやスタン・モーテンセン、ハリー・ジョンストンらを擁したブラックプールを決勝で破り、FAカップ優勝トロフィを掲げた。1909年に初めてユナイテッドがFAカップを手にしてから、39年後のことだった。
それは1911年のリーグ優勝以来のメジャーなタイトルだった。ふたたびトロフィの味を知ったバスビー軍団のターゲットはその後、タイトル獲得に向けられた。リーグ戦再開後の最初の5シーズンでユナイテッドは4度準優勝、あとの1シーズン(1949-50)は4位で終えている。
優勝を賭けた彼らのスリリングな戦いは、大量のファンを惹きつけた。1947-48シーズンには100万人を超えるファンがスタジアムに来場し、そのチケット収入はクラブを赤字から救った。そして彼らファンたちが待ち焦がれたものを手にできるのも、そう遠い先の話ではなかった。
1950年から1959年
1950年代は、1948年のFAカップに優勝したマット・バスビーのチームのブレイクとともに幕を開けた。
ロッカールームでの不協和音からジョニー・モリスがダービーに移籍、続いてチャーリー・ミッテンもコロンビアに羽ばたいた。ファンたちは2人が離脱した影響をどう埋めあわせるのかと気を揉んだが、バスビーの考えは、彼自身が40年代後半にリクルートし、育ててきたジャッキー・ブランチフラワー、ロジャー・バーンといった若手を採用することだった。そうして表舞台に立った<2人を、メディアは『ベイブス』(ベイビーたち)と呼んだ。そして彼らがデビューした1951-51 シーズン、ユナイテッドは1911年以来初めてリーグ優勝を成し遂げたのだった。
1955-56シーズンと1956-57シーズンにも、バーンはキャプテンとしてファーストディビジョンの優勝トロフィを掲げた。その時のチームには、バスビーのユースアカデミーから巣立ったエディー・コールマン、マーク・ジョーンズ、デイヴィッド・ペグらもレギュラーとして定着していた。彼らはFAユースカップが新設された1953年以来5年連続で同大会で優勝していた。
しかし若手選手全員がアカデミー出身者ではなかった。監督は市場にも絶えず目を光らせ、トミー・テイラーやゴールキーパーのハリー・グレッグら代表クラスの選手たちを高額の契約金で招き入れた。
クラブでも代表でもひときわ目立っていた若手がダンカン・エドワーズだった。パワフルで才能に溢れ、成熟していたダドリー出身のこのティーンエイジャーをバスビーはファーストチームで起用しないではいられなかった。そして1953年4月、16歳と185日のエドワーズはファーストディヴィジョンでプレーした歴代最年少プレーヤーとなった。
バスビー・ベイブスの時代を象徴した試合のひとつが、1958年2月1日にハイバリー・スタジアムで行われたアーセナル戦だった。63,578人の観衆の前でレッズはガナーズを5-4と計9得点の攻撃戦の末に破った。この試合ではエドワーズ、テイラー(2ゴール)と並んでボビー・チャールトンとデニス・ヴァイオレットもゴールを決めた。
悲しいことに、彼らにとってイングランドの地で戦ったおそらく最も名戦といえるこの試合が、彼らの最後の試合となってしまった。ハイバリーでの試合の後、ベイブ達は欧州カップ戦でレッドスター・ベオグラードと対戦すべく敵陣に臨んだ。その試合でも勝利をおさめ、2<試合合計5-4で勝利を手にしたその帰路、祝宴は悲劇に変わった。
1958年2月6日、燃料補給のために立ち寄ったミュンヘンで、ユナイテッドのメンバーを乗せた飛行機が墜落。バーン、コールマン、ジョーンズ、ペグ、テイラー、ジョフ・ベント、リアム・ウィーランら7人の選手を含む22人が即死。重傷を負ったダンカン・エドワーズも、15日後にドイツの病院で息を引き取った。クラブだけでなく、マンチェスターの街、そしてイングランドのフットボール界が長い喪に服した。これほどの悲劇からユナイテッドが復活することは不可能だとさえ思われた。
しかしバスビーは事故の痛手を跳ね返さんとばかりに奮起し、ジミー・マーフィーと手を取り合い、5月、FAカップ決勝戦の舞台に立った。しかしながらウェンブリーでの決勝戦では、レッズはボルトン・ワンダラーズに敗れた。ちょうど1年前にも決勝戦でアストン・ヴィラに敗れていた。
僅差で2位に甘んじるというシナリオはさらに続き、1958-59シーズンもリーグ2位で終えた。その頃、チームは世代交代の時期を迎えていた。バスビーはふたたび、のちに黄金期と呼ばれる時代へ向けて、偉大なるチームの構築にとりかかっていた。
1960年から1969年
イングランド史上最高チームの一つと言われる集団を作り上げたマット・バズビーは、1960年代はじめから、再び一からチーム作りを始めなければならなかった。なぜなら、ミュンヘンでの飛行機事故が彼から多くを奪い去ったからだった。この事故は彼からフットボールだけでなく、同年代で最も優れた選手たちの命をも奪った。しかし、偉大なバズビーは自身の負傷から回復後、世界に旋風を起こすチームを作り始める。
デニス・ヴァイオレットは、新たなチームの顔の一人になった選手だった。ミュンヘンの事故から生還したヴァイオレットは、1959-60シーズンに32ゴールを決め、ジャック・ロウリーが保持したクラブの年間最多ゴール記録を更新。クラブは年間102ゴールをマークしたが、失点も80と多く、リーグ7位で同年を終えた。
ミュンヘンでの事故から生還し、オールド・トラッフォードで素晴らしいキャリアを送ったのはヴァイオレットだけではなかった。ビル・フォルケスも生き残ったほか、クラブのユース出身であるボビー・チャールトンは、後にユナイテッドとイングランド代表の歴代最多得点記録を樹立するまでに成長する。同じくユース出身のノビー・スタイルズ、それからトリノから当時の最高額11万5000ポンドという移籍金で獲得したデニス・ローも、新たなチームの中心メンバーだった。
60年代に入り、新たな顔ぶれが定着後、ユナイテッドは好スタートを切った。1963年にはウェンブリーでのFAカップ決勝に進出すると、デイヴィッド・ハードが2ゴール、ローもゴールを決め、レスターを3-1で下し優勝を遂げた。
FAカップでの成功により、リーグ優勝を狙える土台を築いたユナイテッドは、翌シーズンをリーグ2位で終える。同シーズンに優勝したリヴァプールとは、わずか勝ち点4差で、ライバルにホームとアウェイで敗れたことが災いした。1962-63シーズンもユナイテッド史に残るシーズンだったと言える。後にフットボール史上初のスーパースターとなるベルファスト出身のジョージ・ベストと契約し、彼がデビューを飾った年でもあったからだ。ベストの類稀な技術、スピード、コントロール能力は、対戦相手を困惑させ、ファンから喝采された。また、映画スターのようなルックスが、世の中の女性を虜にした。
1964-65シーズンには、有名なユナイテッド・トリニティことベスト、ロー、チャールトンのトリオがクラブを高みへと導いた。得失点差でリーズを上回りリーグ優勝を果たすと、インターシティーズ・フェアーズカップとFAカップ準決勝に進出。ローはゴールを量産し、同シーズンの欧州年間最優秀選手賞に輝いた。
これでタイトル獲得が可能なチームがようやく完成したかに思われたが、1965-66シーズンは残念ながらリーグ4位に終わり、FAカップでもヨーロピアンカップでも準決勝で敗退してしまう。同年のハイライトは、ヨーロピアンカップ準々決勝でのベンフィカ戦だろう。ベストが眩いばかりの光を放ち、5-1で勝利した試合だ。この活躍により、ベストは“5人目のビートルズ”という愛称で知られるようになった。
1966-67シーズンに再びリーグ優勝を果たし、ヨーロピアンカップ出場権を勝ち取ると、ウェンブリーでの決勝まで勝ち進み、ベンフィカを下した。チャールトンのヘディングで先制したユナイテッドに対し、ベンフィカはジャイメ・グラサの得点で同点に追いつき、試合は延長戦に突入。延長戦ではベスト、ブライアン・キッド、チャールトンがゴールを決めて突き放し、ユナイテッドがクラブ史上初のヨーロピアンカップ優勝を成し遂げた。それは、サー・マットにとって夢のようなチームが破壊された年から、10年後のことだった。彼は、信じられないようなことを成し遂げてみせたのだ。その後、バズビーにはナイトの称号が与えられた。
翌1968-69シーズンはリーグ11位に低迷し、フィールド内での暴力により損なわれたインターコンチネンタルカップでもエストゥディアンテスに2試合合計で敗れ、無冠に終わった。拍子抜けするような形で60年代を終えたものの、ユナイテッドファンはこの10年間の結果を喜んだのではないだろうか。そして1969年、数々の功績を残した���ー・マットが引退を表明したことを、不本意ながら受け入れたはずだ。
1970年から1979年
ヨーロピアンカップ優勝の栄光は影を潜め始め、マンチェスター・ユナイテッドは監督人事に意識を向けていた。栄光をもたらしたサー・マット・バズビーが引退後、クラブ上層部は問題を抱えることに。
最初に実行した案は、チーム内の昇格人事だった。元選手で、バズビーの下でコーチを務めたウィルフ・マクギネスを監督に就任させたのだ。スター選手たちがピークを過ぎ、チームの実務をコントロールするだけの能力に欠けたマクギネスは、サー・マットからのプレッシャーにも苦しんだ。人気選手だったデニス・ローやシェイ・ブレナンを放出候補に加えても問題解決にはならず、ジョージ・ベストのピッチ外の行動もマクギネスを苦しめた。
ウィルフがその苦しみに長く耐える必要はなかった。1970年のボクシングデイに監督の任を解かれ、サー・マットが暫定監督を務めた。次に白羽の矢が立ったのはフランク・オファレルで、1971年6月に監督に就任。シーズン序盤は好スタートを切ったものの、1972年の12月16日に行なわれたクリスタル・パレス戦に5-0で敗れた試合がオファレルにとって最後の試合になった。
オファレルの在任期間は短かったものの、当時最高額の移籍金12万5000ポンドで獲得したマーティン・バカンが置き土産となった。アバディーンでキャプテンを務めた同選手は、1972年のクリスマス時期にオファレルの後任に就任したトミー・ドハーティーにとって重要な存在となった。
ドハーティーに課せられた最初の仕事は、トップリーグ残留と、1960年代のチームを支えたレジェンド世代からの移行だった。そんな中、ボビー・チャールトンが1972-73シーズンでの引退を宣言し、ベストは頻繁に引退を申し出た。ローも全盛期を過ぎ、1973年7月にフリートランスファーとなって退団。後に、ローがドハーティーを悩ませる原因となってしまう。マンチェスター・シティーに移籍したローは、1974年4月、オールド・トラッフォードで行なわれた試合でゴールをマーク。ローのゴールにより、ユナイテッドの2部降格が決定したのだった。
だが、ドハーティーのユナイテッドは翌1974-75シーズンにセカンド・ディビジョンで優勝を果たしてトップリーグに復帰。スチュワート・“パンチョ”・ピアソンがリーグ戦で17ゴールを記録し、ルー・マカリが1975年4月5日のサウサンプトン戦で決めたゴールにより、昇格が決まった。
ユナイテッドは、1976年と77年に続けてFAカップ決勝に進出。76年は2部のサウサンプトンに敗れたが、77年の決勝ではリヴァプールを2-1で下し、リーグ優勝、ヨーロピアンカップを制したライバルの3冠を阻止したのだ。それでも、この優勝の喜びもまた、長くは続かなかった。それから44日後、クラブの理学療法士ローリーの妻メアリー・ブラウンとの関係が公となり、ドハーティーは解任されてしまう。
後任には、QPRの監督だったデイブ・セクストンが就任。就任から2シーズン(1977-78、1978-79)は10位に終わったものの、1979年にはウェンブリーでの決勝にチームを導いた。残念ながら、ユナイテッドはFAカップ決勝でアーセナルに3-2で敗戦するも、記憶に残る決勝戦となったことだろう。2点のビハインドを背負った状況で、残り5分からゴードン・マックイーンとサミー・マッキロイがゴールを決め、土壇場で同点に追いついたものの、延長戦の末アラン・サンダーランドに決勝点を決められ敗れた。
ウェンブリーでの激闘により1970年代を終えたユナイテッドだったが、激動の10年が近づきつつあった。
1980年から1989年
ユナイテッドの1980年代序盤は決して良いものではなかった。FAカップでは序盤ラウンドでトッテナムに敗れ、ファーストディビジョンでもイプスウィッチに大敗を喫する結果となったが、デイブ・セクストンのチームはリーグ戦のラスト10試合で8勝をあげてリヴァプールに迫ったものの、僅か勝ち点2差の2位に終わった。
翌1980-81シーズンも7連勝でシーズンを終えたが8位でフィニッシュ。クラブ上層部が許容できる順位ではなく、1981年の4月30日、監督を4年務めたセクストンが解任された。
セクストンの後任に就任したロン・アトキンソンは、ミック・ブラウンをアシスタントマネージャーに招聘し、エリック・ハリソンをユースコーチに招いた。だが、ファンを興奮させたのはフィールド上での新戦力だった。当時のイングランド史上最高額150万ポンドの移籍金で、アトキンソンの古巣ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンからブライン・ロブソンを獲得したのだ。そして、ロブソン獲得に費やした金額のおよそ3分の1を投じて、またもウェスト・ブロムウィッチからレミ・モーゼスをチームに加えた。
これで中盤の補強は進み、当時イングランドのスター選手だったレイ・ウィルキンスを支えられる素晴らしい布陣が整った。しかし、まだユナイテッドには欠けていたポジションがあった。それは、リヴァプールのイアン・ラッシュのように点が取れるフォワードだった。マージーサイダーが1982年、83年、84年にリーグ優勝を果たしたのに対し、アトキンソンのチームはせいぜい3位か4位どまりで、優勝争いに絡むことはなかった。
ユナイテッドにとって最大のチャンスは国内カップ戦で、1983年に2大会でウェンブリーでの決勝に進出。ミルクカップ(リーグカップ)決勝では延長戦の末リヴァプールに2-1で敗れたが、FAカップ決勝ではブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンと2-2の引き分けとなった後の再試合を4-0で制し、優勝を果たした。再試合では、ロブソン(2ゴール)、アーノルド・ミューレン、ノーマン・ホワイトサイドがゴールを決めた。
大舞台に強いホワイトサイドは、1985年のFAカップ決勝(エヴァートン戦)でゴールを決め、ユナイテッドが1-0で勝利し優勝を果たした。同試合の序盤、ポール・マクグラスと守備の連係を構築していたケヴィン・モーランが退場し、1人少ない状況ながらも優勝してみせた。
就任から3年で2回目のFAカップ優勝だったが、それから18ヶ月後、リーグ優勝を独占していたリヴァプールとの差を縮められず、アトキンソンは解任されてしまう。1985-86シーズンは開幕から10連勝をマークし、優勝できていたかもしれなかったが、ユナイテッドは新監督招聘を決めた。
1986年11月、ユナイテッドはようやく勝者として確かな実績を持つ監督の招聘に成功する。アバディーンで指揮を執り、スコットランドの全タイトルを獲得したアレックス・ファーガソンを新監督に迎え入れたのだ。ファーガソンが監督時代、アバディーンはヨーロピアンカップ・ウィナーズカップ決勝で、大方の予想を覆し、レアル・マドリーを破って優勝した実績の持ち主だ。
ファーガソンには、ユナイテッドの監督に相応しい才能が備わっていたが、クラブの状況を好転させるには時間も必要だった。そのためクラブは、1986-87シーズンと1988-89シーズンを11位で終わっても辛抱強く耐えた。それらの中間にあたる1987-88シーズンは、ラスト10試合を8勝2分で終えてリヴァプールに次ぐ2位に順位を上げ、吉兆を示した。
同年に見せた明るい兆しは、それから数選手を獲得した後、ついに実を結ぶこととなる。
1990年から1999年
1990年の始まりは、サー・アレックス・ファーガソンにとってマンチェスター・ユナイテッドでの初めてのタイトル獲得、そして黄金期を終えたリヴァプールが最後のリーグ優勝を遂げた時期でもあった。潮流は、確実に変わりつつあった…
クリスタル・パレスとの再試合の末にFAカップ初優勝を成し遂げたファーガソンだったが、当時はユナイテッドの成功は一過性のもので、リーグで低迷したファーガソンのポジションを守っただけにしか過ぎないと見られていた。しかし、パレス戦でリー・マーティンが決めた決勝ゴールにより、それから9年後に前例のない成功に繋がる導火線に火が点いたことなど、誰にも予見できなかっただろう。
その手始めが1990年のFAカップ優勝だった。ヘイゼルの悲劇から5年間UEFA主催の国際大会の出場停止処分を受けていたイングランドのチームだったが、出場権を得たユナイテッドはヨーロピアン・カップ・ウィナーズカップ決勝に勝ち進み、マーク・ヒューズの古巣バルセロナと対戦。1991年5月に行なわれた決勝では、そのヒューズが2ゴールを決めて2-1で勝利し、クラブが初めて欧州を制した年から23年後に欧州のタイトルを獲得した。
リーグ戦でも長らく優勝できていなかったユナイテッドだったが、1992年、優勝の可能性を感じさせた。同年の3月にはファーガソンにとって3つ目のタイトル、リーグカップ優勝を決めていたユナイテッドは、リーズと優勝争いを繰り広げていた。すでにリヴァプールは優勝争いから脱落していたが、シーズン終盤アンフィールドでユナイテッドを2-0で下し、宿敵の希望を打ち砕いた。
マンチェスターにとっての1991-92シーズンは、ユナイテッドが優勝を逃したシーズンとして知られ、実際に優勝したリーズに関する記憶は薄い。リーズは、1990年代最強のチームではなかった。スター選手によるチームの力が著しく落ちたのは、1992年12月、リーズがベストプレーヤーのペナイン山脈越えを許してしまった時だった。
なんと、前年の優勝に大きく貢献したエリック・カントナをオールド・トラッフォードに売却。フランス出身のカントナは、惜しくもタイトルを逃した前年のユナイテッドに欠けていた自信と、ちょっとした魔法をもたらした。カントナは移籍したシーズンに9ゴールをマーク。このマジックによる即効性は強く、ユナイテッドが実に26年ぶりにリーグ優勝を果たした。
1993-94シーズン、ユナイテッドはリーグ優勝とFAカップ優勝による2冠を達成。カントナは、同年から長らくブライアン・ロブソンの象徴だった7番を受け継いだ。当時の1番、つまり正GKは、イングランド史上最高のGKと称されるピーター・シュマイケルが務めていた。
エースのカントナが、クリスタル・パレス戦の最中にファンとの間で起こした騒動により、8ヵ月の出場停止処分を受けた影響は、2冠防衛を難しくした。結果的にリーグでは勝ち点1差でブラックバーン・ローヴァーズに優勝を奪われ、FAカップ決勝ではエヴァートンに1-0で敗れた。ウェンブリーでのFAカップ決勝では、1990年代前半に堅固な守備を誇ったキャプテンのスティーヴ・ブルースがケガをして前半終了後に交代を余儀なくされ、そのブルースに代わって出場したライアン・ギグスのコンディションも万全でなかったことが影響した。
ブルースは1995-96シーズンのFAカップ決勝も欠場したが、今回の結果は異なった。史上初のリーグ優勝とFAカップ優勝の2冠を2回達成することを目前にしていたユナイテッドの前に立ちはだかったのは、ライバルのリヴァプール。しかし、86分にカントナが決勝点をあげて史上初の快挙を達成したのだった。デイヴィッド・ベッカム、ガリー・ネヴィルら若手を引っ張ったのは、間違いなくカントナだったと言える。
1997年5月、そのカントナは、90年代に入り4回目のリーグ優勝をユナイテッドにもたらすと、電撃的に現役引退を発表し、世間を驚かせた。エリック引退の余波は、およそ1年続いたと言ってもいい。1997-98シーズンは無冠に終わり、同年はアーセナルが2冠を達成。この年に成績が振るわなかった要因は、特にギグスとロイ・キーンの負傷だった。
ギグスが試合に与える影響の大きさは、1999年のFAカップ準決勝を見れば明らかだ。アーセナルとの再試合で、ギグスは相手DFを置き去りにしてゴールを決め、90年代最高のゴールと呼ばれる名シーンを生み出した。そして、90年代で5回目のFAカップ決勝ではニューカッスルと激突し、ポール・スコールズと、交代出場のテディ・シェリンガムがゴールをあげ、優勝した。
オールド・トラッフォードでのトッテナム戦にアンディ・コールのゴールにより勝利しプレミアリーグ優勝を決めた6日後に国内2冠を果たしたユナイテッドには、まだもう1つのタイトルを獲得するチャンスがあった。チャンピオンズリーグでも勝ち上がっていたユナイテッドは、ユヴェントスと対戦した準決勝 第2戦、2点を追う窮地に立たされたのだが、キーンの叱咤によりチームは勢いを取り戻して逆転勝利を収め、バルセロナで開催されたバイエルン・ミュンヘンとの決勝に臨んだ。
1968年にヨーロピアンカップを制して以降初の欧州制覇は、先制し、ドイツ流の固い守備を敷くバイエルンを相手に厳しいのではないかと大方が思ったことだろう。しかし、後半の追加タイム、スポーツ史上稀に見る大逆転劇が見られた。シェリンガムが同点ゴールを決めて試合を振り出しに戻すと、その直後、シェリンガムに代わって出場したオーレ・グンナー・スールシャールが決勝点を決め、2-1で大逆転勝利。ユナイテッドが、ついに3冠を達成したのだ。この結果に世界中のファンが沸き、ファーガソンにはナイトの称号が与えられた。
1999年、トレブルを達成したユナイテッドはクアドラプル(4冠)にまでタイトル数を伸ばすことに。99年に日本の東京で開催されたインターコンチネンタルカップに出場したユナイテッドは、ブラジルのパルメイラスと対戦し、キーンのゴールによりクラブ世界王者となった。ミレニアムを迎える直前、世界最大のフットボールクラブが、世界ベストのクラブに上り詰めた瞬間だった!
2000年から2009年
ユナイテッドはミレニアム元年をパイオニアとして迎えた。1月にブラジルで開催されたFIFAクラブ世界選手権に出場したのだ。前年に優勝したFAカップを辞退してまで出場したのだが、タイトルは獲得できなかった。
しかし、太陽の日差しを浴びた選手たちは、束の間の気分転換を楽しんだ。この遠征により鋭気を養ったユナイテッドは、イングランドに戻ると優勝争いを牽引。シーズン序盤こそ波に乗れなかったものの、サー・アレックス率いるクラブは4月にプレミアリーグ優勝を決めた。ただ、ピーター・シュマイケルに代わる正GKは、まだ見つけられずにいた。
もちろんシュマイケルの後任候補として何選手を試してはみた。マーク・ボスニッチは1999-2000シーズンに結果を残せなかったため、フランス代表でワールドカップ優勝、欧州選手権優勝に貢献したファビアン・バルテズを2000年7月に獲得した。
バルテズは、エキセントリックながらも強大なGKとして知られ、2000-01シーズンにはユナイテッドのリーグ3連覇に貢献。3シーズン連続優勝を直近で達成したクラブは、1982年、83年、84年に達成したリヴァプールのみだった。ただ、リヴァプールは3連覇をボブ・ペイズリーとジョー・フェイガンの下で成し遂げたのに対し、ユナイテッドはサー・アレックスの下で3年連続優勝を果たし、イングランドのフットボール史上初の快挙を達成。この偉業達成後、サー・アレックスは勇退を示唆したのだが、すぐに撤回し、ユナイテッドの監督に留まった。
ファーガソンは、2002年の夏に大型補強を実行。日韓共催ワールドカップで活躍したリオ・ファーディナンドをリーズから3000万ポンドで獲得した。ユナイテッドからラツィオに移籍したヤープ・スタム以来となる、屈強なセンターバックを加えることに成功した。
ファーディナンドは2003年の5月に決まったリーグ優勝に貢献したが、FAのドーピング検査に出頭しなかったとして、8ヵ月の出場停止処分を科されてしまう。>
リオ不在の影響は大きく、ユナイテッドは2004年に再びリーグタイトルをアーセナルに明け渡してしまう。それでもFAカップでは決勝に勝ち進み、ミルウォールを3-0で下して同大会史上最多となる11回目の優勝を果たした。その1年後、ユナイテッドは、ウェールズで開催された同カップ決勝でアーセナルと激突することになる。2004-05シーズンはリーグ優勝とカーリングカップをチェルシーに奪われ、FAカップでもPK戦の末ガナーズに敗退。ユナイテッドは試合では圧倒し、特にウェイン・ルーニーとクリスチアーノ・ロナウドが突出的なパフォーマンスを見せたが、あと一歩及ばなかった。だが彼ら2人は、翌シーズンのカーリングカップ決勝でウィガンを下し、キャリア初戴冠を果たす。
サー・アレックスとユナイテッドにとって、やはり主な目的はプレミアリーグ優勝に他ならない。そして、翌シーズンには前年王者チェルシーに勝ち点6差をつけて16回目の優勝を果たした。全員でスタンフォード・ブリッジから奪い返した優勝だったが、中でも称賛に値する活躍を見せたのはロナウドだ。PFA最優秀若手選手賞を含め、ロナウドは同シーズンに13もの個人タイトルを獲得した。
2006-07シーズンを超えるパフォーマンスは難しいと誰もが思った。だが、翌年、ロナウドは最高の成績を残す。年間42ゴールを記録したばかりか、チェルシーをかわしての2冠達成に貢献したのだ。2007年の夏にオーウェン・ハーグリーヴス、カルロス・テベス、アンデルソン、ナニを加えて強化したチームは、序盤のスロースタートをシーズン全体を使って挽回。チェルシーの猛追もあったものの、ウィガンとの最終節では、同試合でクラブ史上最多試合出場記録を更新したライアン・ギグスが決勝点を決め、17回目のリーグ優勝を果たした。
それから10日後、ユナイテッドはモスクワでのチャンピオンズリーグ決勝で、再びブルーズと激突した。ロナウドの先制点はフランク・ランパードのゴールによってなかったことにされると、試合は120分でも決着がつかず、PK戦に突入。ロナウドの失敗によりチェルシーにチャンスが訪れるも、キャプテンのジョン・テリーが足を滑らせ、シュートはポストに嫌われた。このミスに救われたユナイテッドは、エドウィン・ファン・デル・サールがニコラ・アネルカのPKを阻止し、クラブ史上3回目となる欧州最高峰の栄誉をマンチェスターに持ち帰ることに成功した。
これだけの成功を収めた2007-08を超えられることはできるだろうか? サー・アレックスのチームは再びチャンピオンズリーグの決勝に駒を進めたが、バルセロナの前に敗れ、歴史的な勝利を飾れなかった。欧州最高峰の闘いでこそ悔しい思いをしたユナイテッドだったが、他の大会では圧倒。2008年12月に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップ決勝では、ルーニーがリーガ・デ・キト戦で決勝点を決めて優勝し、ユナイテッドが世界王者に上り詰めた。
シーズン半ばの重要な時期を遠く東に離れた国で過ごした影響は、国内リーグ戦にあったのだろうか? 結果的に、この遠征がユナイテッドの力を増幅させた。日本に行く前の時点で首位リヴァプールに勝ち点7差をつけられていたのだが、同シーズン史上最多に並ぶ18回目の優勝を成し遂げたのだ。主将のガリー・ネヴィルがプレミアリーグのトロフィーを掲げる前には、カーリングカップ決勝でトッテナムを下してタイトルを獲得。この試合で活躍したのは若きGKベン・フォスターだった。120分でも決着がつかずPK戦となると、フォスターのセーブにより栄冠を手にした。
フォスター以外にも、同シーズンには若手の台頭があった。フェデリコ・マケーダは、デビュー戦となったアストン・ヴィラ戦で決勝点をあげ、ダニー・ウェルベックもデビュー戦でゴールを記録。同じくダロン・ギブソンもデビューしたシーズンにゴールをあげた。然るに、2009年の夏にロナウドとテベスがオールド・トラッフォードを去ったが、ユナイテッドの未来は明るかった。
2010年以降
シーズン序盤から好スタートを切りながら、2009-10シーズン終盤にチェルシーが猛反撃を見せ、リーグ最終節の結果、僅か勝ち点1差でチェルシーに及ばず、ユナイテッドのリーグ4連覇は叶わなかった。
だが、カーリング・カップ決勝には勝ち進み、ウェイン・ルーニーが終盤に決めたゴールにより優勝。ルーニーは同年に好成績を残し、PFA年間最優秀選手賞、フットボールライターが選出する年間最優秀選手賞を受賞した。
2009-10シーズンの獲得タイトルが1つに終わったことよりも、マンチェスター・シティーとのダービーが燃えたシーズンとして記憶に残っている。タイトル獲得に向け多額の資金を投じたシティーだったが、同年のプレミアリーグではホームとアウェイでユナイテッドが勝利。カーリングカップ準決勝でも勝利を収めたが、どの試合も終了直前の決勝ゴールでなんとか勝った、という内容だった。
2010-11シーズン、プレミアリーグ優勝をノースウェストに持ち帰ろうとマンチェスターの両クラブは燃えた。ユナイテッドは、当時こそ評価は高くなかったが、将来有望なハビエル・エルナンデスとクリス・スモーリングを獲得。2人は知名度こそ低かったものの、すぐにチームに順応してみせた。同年ユナイテッドはアウェイで結果を残せなかったのだが、リーグ史上最多となる19回目の優勝を達成。2009-10シーズンに活躍したルーニーも絶好調を維持し、10-11シーズんはチームとしてより多くの成功を収められた。
10-11シーズンを最後に引退したGKエドウィン・ファン・デル・サールや、ライアン・ギグス、ポール・スコールズの影響、それから序盤こそ不振に苦しみ、移籍騒動も起こったが、見事に立ち直ったルーニーの活躍により、チェルシーから王座を奪還することに成功したのだ。
ホームでの圧倒的な戦績により優勝を収められたのだが、ヨーロッパではアウェイでも勝ち続け、チャンピオンズリーグ決勝でまたしてもバルセロナと対戦することに。ウェンブリーで開催された決勝では、リオネル・メッシらの前に歯が立たず、バルセロナを相手に3年で2回目の敗戦を喫した。しかし、19回目のリーグ優勝という功績は、オールド・トラッフォードの記憶に残るものだ。
20回目のリーグ優勝を目指すため、サー・アレックス・ファーガソンは、ダビド・デ・ヘア、フィル・ジョーンズ、アシュリー・ヤングを獲得。生え抜きのトム・クレヴァリーとダニー・ウェルベックもシニアのレギュラーに定着するようになった。
2011-12シーズンは開幕ダッシュにこそ成功したものの、負傷者に苦しめられた。ユナイテッドのホームで勝利したシティーが優勝候補に相応しい実力を証明した中、前年に引退したスコールズが電撃復帰を果たし、ユナイテッドは徐々にロベルト・マンチーニが率いたシティーにプレッシャーをかけた。そして、シーズン終了まで残り1ヵ月となった時点では、ユナイテッドが首位に立ち、2位との勝ち点差を8にまで広げていた。
だが、終盤戦に不味い結果が続いたことでシティーに逆転を許し、実に44年ぶりとなるシティーの優勝が決まった。シティーは、リーグ最終節のQPR戦の後半追加タイムに2ゴールを決め、得失点差でユナイテッドを上回った。
サー・アレックスはシティーに逆転優勝を許した結果に苛立ったが、新王者を祝福。「勝ち点8ものリードから逆転された結果は残念だが、うちの選手たちを責めるつもりはない。彼らは素晴らしい選手。何の問題もない」と語り、労をねぎらった。
サー・アレックスの予言は、それから12ヶ月後に的中する。優勝を逃した悔しさを晴らすため、2012年の夏にロビン・ファン・ペルシーと香川真司を獲得し、20回目のリーグ優勝を達成したのだ。2013年4月22日にホームで行なわれたアストン・ヴィラ戦で、2012-13シーズンの得点王に輝いたファン・ペルシーがハットトリックをやってのけ、ユナイテッドが早々にリーグ優勝を決めた。圧倒的な力を見せつけたユナイテッドは、2位シティーに勝ち点11もの差をつけて優勝。この結果、マンチーニはシティーの監督を解任され、後任にはチリ出身のマヌエル・ペジェグリーニが就任した。
オールド・トラッフォードでも大きな変化が起こった。サー・アレックスが王者として勇退することを発表。2013年5月8日に正式に勇退を表明すると、その翌日には当時エヴァートンの監督だったデイヴィッド・モイーズの新監督就任が発表され、ブリティッシュフットボール史上最大の功績を残した偉大な監督の後を引き継ぐこととなった。
無冠ながらグディソン・パークでの手腕が高く評価されたモイーズだったが、ユナイテッドの監督は荷が重過ぎた。2013-14シーズンを無冠で終え、リーグ7位に低迷した責任により、2014年4月22日に解任が決まり、クラブ史上最多試合出場記録を持つライアン・ギグスが同シーズン終了まで暫定監督を務めることが発表された。
モイーズの後任には、ルイ・ファン・ハールが就任。クラブ史上初の英国、アイルランド出身外の監督の就任は、2014年5月19日に発表され、ファン・ハールは、オランダ代表をワールドカップ・ブラジル大会準決勝まで導いた後、同年の7月から指揮を執った。その年の5月に引退したギグスは、アシスタントマネージャーとして入閣し、指導者としてのキャリアをスタートさせた。
ファン・ハールは、1年目の夏の移籍市場期限日が近づいた時期に、クラブ史上最高額の5970万ポンドでアンヘル・ディ・マリアを獲得すると、モナコからは期限付きでラダメル・ファルカオを獲得。そしてデイリー・ブリント、アンデル・エレーラ、マルコス・ロホ、ルーク・ショーを新戦力として迎えた。その結果、退団する選手も多く、2014-15シーズンは大幅にメンバーを入れ替えて臨んだ。
欧州カップ戦出場権がなかったため、ファン・ハールにとっての1年目は国内の試合にだけ集中できる環境にあった。バークレイズ・プレミアリーグでの目標だったトップ4に入り、翌シーズンのチャンピオンズリーグ出場権を獲得したものの、国内カップ戦では予想外の苦戦を強いられ、ユナイテッドは、キャピタルワンカップでリーグワンのMKドンズとのアウェイ戦に4-0で大敗を喫したばかりか、FAカップ準々決勝では、ホームでアーセナルに敗退。同年のFAカップは、ユナイテッドに勝利したアーセナルの優勝で幕を閉じた。
2015年の夏、ファン・ハールはモルガン・シュナイデルランとバスティアン・シュヴァインシュタイガーを獲得して中盤の選手層を厚くすると、攻撃的サイドバックのマッテオ・ダルミアンを加え、モナコからは新星アントニー・マルシャルを獲得した。だが、最大の補強になったのは、正GKダビド・デ・ヘアとの延長契約だっただろう。レアル・マドリーが数ヶ月前から獲得を希望していたデ・ヘアだったが、この話は移籍期限日の締切直前に破断となった。
2015-16シーズンは、まずまずのスタートながら、ユナイテッドはブリュージュをホーム&アウェイで下してチャンピオンズリーグ本大会出場権を獲得したほか、オールド・トラッフォードでのリヴァプール戦では、デビューを飾ったマルシャルにもゴールが見られ、3-1で勝利。しかし、相次ぐ負傷者により、ファン・ハールのプランも予定通りに進まなくなってしまう。中でも重傷を負ったのはルーク・ショーで、9月に行なわれたPSVアイントホーフェン戦で足を骨折し、その後のシーズン全休が決まった。PSVとのアウェイゲームに敗れたユナイテッドは、グループステージを通過できず、ヴォルフスブルク、PSVに次いで3位で終え、ヨーロッパリーグに回ることとなった。だが、ラウンド16で国内ライバルのリヴァプールと激突し、敗れた。
キャピタルワンカップも早々にミドルズブラとのラウンドでPK戦の末に敗退したが、クラブ史上12回目のFAカップ優勝を達成。2004年以来となる優勝に沸いたものの、リーグ戦で不安定な試合が続き、チャンピオンズリーグ出場権を獲得できなかったため、ファン・ハールの去就についてメディアが憶測を報道する事態に。そしてウェンブリーでのFAカップ優勝から48時間後、3年契約の2年目を終えたファン・ハールの任は解かれた。
以前から噂されていたジョゼ・モウリーニョのユナイテッド監督就任が現実のものとなったのは、2016年5月27日(金)で、ManUtd.comでエグゼクティブバイスチェアマンのエド・ウッドワードが、以下の声明を発表した。
「ジョゼは、今日のフットボール界において、ベストな監督だ。彼の功績はクラブを前進させる上で理想的だ」
モウリーニョは、ユナイテッド監督就任について「フットボール界において、マンチェスター・ユナイテッドの監督に就任することは、特別な名誉です。クラブは、世界中に知られるほどの知名度を誇り、尊敬を集めています。そして、他のクラブにマッチできない神秘的な魅力とロマンスを備えているのです」と、述べた。
モウリーニョ体制となって初のタイトルは、2016-17シーズンのプレミアリーグ開幕前に行なわれたコミュニティシールドだった。ユナイテッドは、前年のリーグ王者レスターを2-1で下して同タイトルを獲得。同年はエリック・バイリー、ズラタン・イブラヒモヴィッチ、ヘンリク・ムヒタリアン、ポール・ポグバを獲得。ポグバの獲得には史上最高額の移籍金が支払われた。ユナイテッドのアカデミー、リザーブ出身のポグバは、2011-12シーズンにファーストチームで7試合に出場した経験を持ち、今回がユナイテッドで2度目のキャリアとなっている。