悲しみから成功へ

悲しみから

ミュンヘンの飛行機事故でマット・バスビーが重傷を負ったあと、チームの指揮を執ったのはアシスタントコーチのジミー・マーフィーだった。マーフィーはウェールズ代表監督としての仕事があったため、ベオグラードでチャンピオンズカップの試合を行ったチームには帯同していなかったのだ。バスビーは「戦いを続けてくれ、ジミー」と言って、マーフィーに全てを託していたのである。

ハロルド・ハードマン会長もバスビーと同じく、試合を行っていくことが大事だと考えていた。ユナイテッドは事故から13日後には、オールド・トラッフォードに集まった5万9848人の観衆の前で、シェフィールド・ウェンズデーとFAカップ5回戦の試合を戦った。ハードマン会長はマッチプログラムの『ユナイテッド・レビュー』誌の中で、「多くの方が命を落とされ、また負傷されましたことをとても残念に思っています。残された私たちにはクラブを栄光へ導く責任があります。ユナイテッドは復活します」というシンプルだが、力強いメッセージを伝えた。

ユナイテッド・レビュー』誌のユナイテッドのメンバー表は真っ白だったが、マーフィーは、バスビーの指示を仰ぎながら、なんとか選手をかき集めて、シェフィールド・ウェンズデー戦に臨んだ。事故に遭ったハリー・グレッグとビル・フォルケスはメンバーに名を連ね、ブラックプールからはアーニー・テイラー、アストン・ヴィラからはスタン・クローザーが新しくユナイテッドに加わった。クローザーはそのシーズンにヴィはユナイテッドでのデビュー戦となったその試合で2ゴールを決める活躍を見せた。また、1968年のチャンピオンズカップ決勝では先発メンバーとして優勝に貢献した選手でもある。

ユナイテッドはシェフィールド・ウェンズデーを3-0で下し、その後も順当に勝ち上がったものの、5月の決勝ではボルトンに敗れてしまった。その数日後には、ミュンヘンの事故以来となるチャンピオンズカップの試合を戦ったが、こちらもミランの前に準決勝で敗退してしまった。

バスビーは、野心を持ち過ぎ、強行日程を行ったことが事故を引き起こしたと自分を責め、引退することを考えていたが、妻と息子に説得され、チームの再建に乗り出す決心をした。

欧州制覇

1968年5月29日。ミュンヘンの悲劇からちょうど10年が経ったその年、ユナイテッドはウェンブリーでついに欧州の頂点に立った。それはバスビーが全ての借りを返した日でもあった。

決勝でベンフィカと対戦したユナイテッドは、バスビーがこだわってきた、生え抜き選手中心の若いチームだった。その日が19歳の誕生日だったマンチェスター生まれのブラチャールトン、フォルケス、ブレナンなどと抱き合ううち、バスビーは大きな肩の荷物が取れたような気がしたという。「ボビー(・チャールトン)が優勝カップを掲げた瞬間、責任を果たせたと思った。ヨーロッパの舞台で戦ったのは間違っていなかった。私は正しかったんだと確信したよ」