オールド・トラッフォードのウエスト・エンドのコンコースには、ある選手の像が建っている。ストレットフォード・エンドとしても知られるこのスタンドに陣取る熱狂的なファンから、“キング”というニックネームで親しまれたデニス・ローだ。
11シーズンを過ごしたユナイテッドで点取り屋として活躍し、同世代のヒーローとなった彼は、まさにクラブの生きる伝説選手の1人である。
ローがユナイテッドで初ゴールを決めたのは、デビュー戦でもあった、1962年8月18日のウェスト・ブロムウィッチ戦だった。彼はその後、さらに236回もゴールネットを揺らしたが、腕を高く掲げ、指を天に突き刺すゴールパフォーマンスはトレードマークとなり、多くの子供たちが、ユナイテッドのファンであろうとなかろうと、真似したものである。
ローは1955年、ハダースフィールドでキャリアをスタート。1960年に当時の英国最高記録となる移籍金でマンチェスター・シティーに加入すると、翌年には海を渡り、トリノへ籍を移した。
しかしイタリアのサッカーに馴染めず、わずか1年でイングランドへ帰還。しかし移籍先は、シティーではなく、ライバルであり、マット・バスビーが指揮を執るユナイテッドだった。バスビーはスコットランド代表の監督を4カ月だけ務めていた1958年にも、当時18歳だったローを初招集し、デビューさせている。
移籍1年目の1963年のFAカップ決勝では先制ゴールを決め、チームの15年ぶりの優勝に貢献。翌シーズンには41試合で30ゴールを決め、欧州年間最優秀選手(バロンドール)に選出された。
チームがリーグ制覇を遂げた1965年と67年にもチームの得点王に輝いた。しかし優勝を果たした1968年のチャンピオンズカップ決勝には、けがのため出場できなかった。しかし翌日には、バスビー監督が、膝の手術を受けて入院していたローのもとへ、ビッグイヤーを運んでくれたという。
その後チームは低迷し、監督もトミー・ドハティーに交代すると、ローは1973年7月、自由移籍でマンチェスター・シティーへ復帰した。
現役最後のゴールは、マンチェスターダービーでマーク。しかしその得点によって、ユナイテッドの2部リーグ降格が決定するという皮肉なものだった。ローはのちに、この試合について「あの週末のゲームほど落ち込んだ試合はなかった」と語っている。
1974年に西ドイツで開かれたワールドカップを最後に現役を引退。スコットランド代表としては合計55試合に出場したが、通算30ゴールはいう。
その後チームは低迷し、監督もトミー・ドハティーに交代すると、ローは1973年7月、自由移籍でマンチェスター・シティーへ復帰した。
現役最後のゴールは、マンチェスターダービーでマーク。しかしその得点によって、ユナイテッドの2部リーグ降格が決定するという皮肉なものだった。ローはのちに、この試合について「あの週末のゲームほど落ち込んだ試合はなかった」と語っている。
1974年に西ドイツで開かれたワールドカップを最後に現役を引退。スコットランド代表としては合計55試合に出場したが、通算30ゴールは
、ケニー・ダルグリッシュと並び、同国の歴代最多記録である。FAカップでも、1996年にイアン・ラッシュに破られるまで、40ゴールという最多記録を保持していた。
親友だったジョージ・ベストは生前、こう語っていた。「歴史に名を残す選手の1人だ。彼のプレーを見ているとゾクゾクしたものさ。1人の人間としても、親友としても、尊敬できる男だ」。多くのユナイテッドファンも同意見だろう。
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