戦時中のユナイテッドの数少ないスターの1人、ジョー・スペンス。きらめくようなスピーディーなプレーから、当時は「ジョーに回せ!」というのが合言葉になっていた。また、オールド・トラッフォードでの14年間において、テラス席では常に彼の名前を呼ぶ歌声が響き渡っていた。
彼がユナイテッド、そしてマンチェスターにおいていかに重要であったかは、彼が一般的に「Mr.サッカー」として知られていたことからも分かる。
ノーサンバーランドのスロックリーで生まれた彼は若かりし頃、ブルーチャー・ジュニアとスロックリー・セルティックでプレーした。ユース時代
の最初のシーズンで彼は驚くべきことにチームの全49ゴールのうちなんと42ゴールを挙げている。13歳でユース選手としてプレーし始めてから17歳で徴兵されるまでの間、彼はロボット射撃手のように働いたのであった。
彼は兵役中もリヴァプール、ニューバーン、そしてスコッツウッドに招かれ、アーミーカップで勝利を手にしている。そして、第一次世界大戦後の1919年3月、スペンスは北東部のアマチュアクラブ、スコッツウッドからユナイテッドに加入した。
彼は無駄な時間をかけることなく、プレーで驚きを与える。オールド・トラッフォードでバリーに5-1と圧勝したデビュー戦で、彼は4得点を記録している。リーグ戦が再開した1919年8月に公式戦デビューすると、その後、スペンスは通算510試合に出場し168ゴールをマーク。ユナイテッドの模範的な選手としてその名を歴史に刻んだ。
スペンスにとって不幸だったのは、彼がユナイテッドを去った1933年まで一度もトロフィーを掲げることがなかったことである(その後、チェスターフィールドに在籍した1936年に、ディヴィジョン3北地区で優勝している)。
彼のオールド・トラッフォードでのキャリアは不運だったとも言えるが、しばしば見どころを欠いていたこの時期のユナイテッドにおいて、エンタ
ーテイメント性溢れるスペンスの存在はまさに最大の売り物であった。
彼はクラブの出場記録のトップ10に依然としてとどまり、またリーグ戦481試合出場という記録はビル・フォクスに抜かれるまで40年間もトップに君臨していた。スペンスはその後コーチ、スカウトとして再びユナイテッドに貢献した。